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大阪地方裁判所 昭和57年(ワ)5230号 判決

原告

甲野五郎

右訴訟代理人弁護士

岡田隆芳

被告

甲野太郎

被告

乙川春子

被告

丙山夏代

右被告三名訴訟代理人弁護士

小原望

叶智加羅

右訴訟復代理人弁護士

和田高明

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  訴外亡甲野ハナの嘱託による昭和五六年七月九日大阪法務局所属公証人坂東治作成同年第一、五七〇号遺言公正証書による遺言が有効であることを確認する。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原・被告らの母亡甲野ハナ(以下「ハナ」という。)は昭和五六年七月一〇日死亡した。

2  ハナは、同月九日、大阪法務局所属公証人坂東治作成昭和五六年第一五七〇号遺言公正証書による遺言(以下「本件公正証書遺言」または「本件公正証書」という。)をなした。

3  本件公正証書遺言は、右公証人のほか、証人として弁護士中川克巳、同山田長伸及び遺言執行者弁護士西村捷三の四名立合いのうえ作成された。

4  原・被告らはいずれもハナの子(原告は五男、被告甲野太郎は長男、同乙川春子は二女、同丙山夏代は三女)であるところ、被告らは本件公正証書遺言が無効である旨主張して、大阪家庭裁判所にハナの遺産分割の調停を申立てている。

5  しかし、本件公正証書遺言はハナの意思に基づく有効なものであるので、原告は請求の趣旨のとおりの判決を求める。

二  請求原因に対する答弁

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実中、本件公正証書遺言の存在は認める。

3  同3の事実は認める。

4  同4の事実中、原・被告らの身分関係、ハナの遺産に関する遺産分割調停事件が大阪家庭裁判所に係属していること及び被告らが本件公正証書遺言の効力を争つていることは認めるが、その余は否認する。

右調停は被告甲野太郎が他の五名の相続人を相手方として申立てたものである。

5  同5は争う。

三  抗弁

本件公正証書遺言は、次の理由により無効のものである。

1  ハナの意思能力の欠如

(一) ハナは八一歳の高齢で肝癌、肝硬変に十二指腸潰瘍を合併し、本件公正証書遺言作成の翌日の昭和五六年七月一〇日午前一〇時四五分に肝不全により死亡したものであるが、肝癌、肝硬変などによる慢性肝不全から肝不全死(肝性昏睡死)に至るときは、通常数日ないし数週間の進行性の意識障害の後に死亡するもので、死亡の十数時間前に複雑な内容の遺言を作成するほどの判断能力、正常な意思及びその伝達能力はないと解するのが医学的に公知の事実である。

(二) 本件においては、ハナは入院後の昭和五六年六月一五日から消化管出血が再発して、これが継続し次第に貧血の状況が著明となり、輸血が開始され、本件公正証書遺言作成当日には大量の輸血を行つており、また、右出血に伴う血圧低下が見られ、その数値は同年七月八日が二〇〇―九〇であるのに対し、翌九日は一〇〇―六〇と著しく低下している。ハナの直接の死因は肝不全であるが、右出血は脳循環の障害を招き、脳細胞の虚血による障害を招いていたであろうことは容易に推測されるところである。

(三) 次に、血中アンモニア濃度について見るならば、ハナは入院後死亡に至るまでの間の検査結果では常時一〇〇μg/dl以上のアンモニア値を記録しており、遺言当日のアンモニア値は正常人よりも高濃度であり、血中アンモニア濃度のみが意識障害、全身状態悪化の唯一のバロメーターではないが、他にも前述の出血による貧血、悪液質等状態悪化の要因は多数存在するのである。殊に、末期においては、ハナには重篤な意識障害、肝性顔面震戦などが間欠的に現れており、右症状は血中アンモニア濃度とのみの比較においては意識障害が重篤に過ぎ、ハナの体内には前記の如くアンモニア以外の意識障害因子が存したことは確実である。

ハナが入院時から極めて重篤な状態にあり、体内不要物質であるアンモニア等の窒素化合物が上昇し、さらにこれに加えて出血による脳細胞虚血、悪液質が、老人であるハナの意識レベル、意識内容に極めて大きな影響を与えていたことは確実である。そして、右病態からすれば、ハナが本件公正証書遺言作成当時意識レベル(覚醒の程度)、意識内容(知的思考力、計算力、記憶力、判断力等)ともに清明であつたとはおよそいい難く、遺言当時において、ハナが本件の如き詳細な遺言内容を口授し、また読み聞かされた遺言内容を逐一理解し、必要な場合、訂正、変更を加えうるような能力がその作成手続中持続して存在したということはありえない。

(四) 以上のとおりであり、ハナが本件公正証書遺言作成時において正常な意思能力を備えていたとはおよそ解し難いのであつて、本件公正証書遺言は遺言者の意思能力の欠如故無効というべきものである。

2  方式違反

(一) 遺言者が右の状態であつたので、遺言者が意思能力を有していることを前提とするすべての方式は遵守されていない。すなわち、遺言者が遺言の趣旨を公証人に口授しておらず(民法九六九条二号)、また、公証人が筆記した内容を読み聞かせておらず(同条三号)、かつ遺言者が筆記の正確なことを承認していない(同条四号)。

(二) そもそも民法九六九条二号の遺言の趣旨の口授とは、遺言者が言語により公証人に対して一方的に遺言の趣旨を陳述することを意味するのであり、遺言者が重症患者で発語が困難であるような場合にその内容を明確にするために若干の質問をすることは許容されるにしても、遺言者を誘導することは法の許容するところではないと言わねばならない。そして、本件公正証書遺言の作成過程を見るならば、公証人坂東治は弁護士西村捷三から交付された資料に基づき、公正証書作成の準備をして予め筆記を作成したうえ、遺言当日、ハナの入院先の住友病院に赴き、ハナの病室内において、右弁護士が口頭で遺言内容をハナに読み聞かせ、右公証人はその内容がハナの遺言意思の内容であるとの前提の下に、以後形式的に手続を進行させて、予め準備してあつた筆記に何ら変更を加えることなく、そのまま右筆記を利用して本件公正証書遺言を完成させたのである。

しかしながら、遺言者に対する強制を排し、遺言者の自由意思により遺言をさせるとともに、遺言者の意思内容の明確を期するとの前述の方法の趣旨及び遺言者が言語により公証人に対して一方的に遺言の趣旨を陳述するという遺言の口授の意味内容に照すと、前記の如き過程を経て作成された本件公正証書遺言は、いかに便宜的に解そうとも遺言の趣旨の口授があつたとは到底いえない。

(三) 以上、本件公正証書遺言は口授の要件を欠き、また、これを前提とする公証人の筆記の読み聞かせ及び遺言者の承認の各要件を欠く無効のものである。

四  抗弁に対する答弁

被告の抗弁は争う。

本件公正証書遺言は、以下に述べるとおり、ハナの意思に基づき、かつ、ハナによる口授、公証人の筆記の読み聞かせ及び遺言者の承認等民法九六九条所定の方式を履践した有効なものである。

1  ハナの意思能力について

本件公正証書作成当日は、午前中医師が診断し、看護婦も度々ハナの病室を訪れているが、いずれもハナの翌日の死亡を予想して処置した事実はないから、前日などと比較してハナの病状に特に顕著な変化がなかつたことが推測されること、本件公正証書作成時、これに立会つた公証人、証人二名、本件公正証書遺言により遺言執行者に指定された弁護士西村捷三らの全てがハナの意識の存在に危ぐを抱いた事情はなく、公証人は職務上遺言者たるハナの意思能力の有無について自己の知識と経験の全てをもつて注意を払い、本件公正証書を作成していること、本件公正証書作成当日は、その作成前に甲野雪子と原告が、その作成後に右両名と被告乙川春子の子供らが十数時間位ハナを見舞つているところ、もしハナに意識がなかつたり、翌日の死亡の虞を感じたのであれば危機感を持つてこれに対処するはずであるが、いずれも深夜にハナを家政婦任せにして帰宅したりしていて、ハナの翌日の死亡の虞を感じた様子がないこと、ハナについての看護記録には、本件公正証書作成日の午前八時「意識ははつきりしている」、同一〇時「開眼中、やや言語不明瞭」、午後二時「面会人あり、談話中」、同三時「意識明瞭なり」、同五時四五分「意識明瞭なり」と各記載されていることなどからすれば、本件公正証書作成当時ハナに意思能力があつたことは明らかである。

2  本件公正証書作成の方式について

公証人が予め遺言の内容を筆記したうえ面接し、既に清書してある遺言の内容を読み聞かせても民法九六九条所定の方式に反するものではないし(大審院昭和九年七月一〇日判決民集一三―一三四一、最高裁判所昭和四三年一二月二〇日判決民集二二―一三―三〇一七)、公正証書遺言いついて「公証人に口授」することを要求する所以は、公証人が直接遺言者の口授を聞くことによつて遺言者の意思が遺言内容に符合していることを確認するためであるから、口授の程度は公証人がそれによつて右確認が可能であれば足りる(東京地方裁判所昭和四四年一一月一九日判決)から、本件公正証書遺言はいずれにしてもその方式に欠けるところはない。

したがつて、被告の主張は理由がない。

証拠〈省略〉

理由

第一本件公正証書遺言の存在等について

原・被告らの母であるハナは昭和五六年七月一〇日死亡したこと及びハナの嘱託による同月九日作成の本件公正証書遺言が存在することは、当事者間に争いがない。

第二本件公正証書遺言の効力について

被告は、本件公正証書遺言はその作成当時ハナに意思能力がなかつたうえ、口授の要件を欠き、また、これを前提とする公証人の筆記の読み聞かせ及び遺言者の承認の各要件を欠くから、無効のものである旨主張するので、以下検討する。

一本件公正証書の作成経過

〈証拠〉によれば以下の事実が認められ、これに反する証拠はない。

1  ハナ(明治三二年一〇月二〇日生)は、昭和四六年一〇月一四日、自已所有財産について自己の夫訴外甲野正一郎及び原・被告らを含む六人の子らに対し別表の同日付公正証書遺言欄記載のとおり遺産分割の方法を指定する旨の公正証書遺言をなしたが、昭和四七年二月七日、別表の同日付公正証書遺言欄記載のとおり、前記公正証書遺言のうち右甲野正一郎及び被告乙川春子に対する遺産分割方法の指定部分につきこれを取消したうえ、前記公正証書遺言により甲野正一郎に分割方法の指定をしていた不動産についてこれを被告乙川春子とその夫秋男に遺贈し、前記公正証書遺言により同被告に分割方法の指定をしていた不動産についてこれを同被告の子三名に遺贈する旨の公正証書遺言をなし、さらに昭和五〇年五月三一日、前記二つの遺言をいずれも取消したうえ、改めて別表の同日付公正証書遺言欄記載のとおり原・被告らを含む六名の子らに相続させる旨の公正証書遺言をなした。

2  弁護士の訴外西村捷三(以下「西村」という。)はハナが昭和四六年前記公正証書遺言作成について相談、依頼した法律事務所に所属していてこれに関与したことから、その後もハナから依頼を受け前記各遺言の作成に関与してきた。ハナは、昭和五〇年前記遺言作成後、その対象不動産の一部を他に売却したこともあつて、右遺言を書き換えたい旨西村に洩していたところ、昭和五六年六月一二日全身倦怠を訴えて住友病院の診察を受け、即日入院したが、翌一三日ころ原告甲野五郎を通じて西村を病院に呼び寄せ、前記昭和五〇年の遺言を書き換えたいとして新たな遺言の趣旨を告げ、その公正証書作成手続きを依頼した。西村はこれを引き受け、その後数回病院に赴きハナの意向を確認しながら文案の作成を進めた。ハナは、自己経営の東亜精機株式会社の株式については、子ら各自が既に所有している株式と合わせ、ハナの付き添い、看病をしていた原告と甲野雪子の持株数合計とその他の子らの持株数合計が同数になるように配分するとともに、右会社を原告と被告甲野太郎の両名が経営していくことを希望して右両名には同数づつ配分する内容の文案作成を西村に要求した。ところがハナの意向どおりの遺言内容にすると特に被告甲野太郎の遺留分を害することになつてしまうので、西村はハナに遺言内容の再考を促したが、ハナは西村に自分の言うとおりにしてくれと要求し、結局西村はハナの要求どおり、前記昭和五〇年の遺言を取消し、ハナの財産を別表の昭和五六年七月九日付公正証書遺言欄記載のとおり原・被告らを含む六名の子にそれぞれ相続させる、祭祀主宰者を甲野雪子と定める、遺言執行者に西村を指定する旨の本件公正証書遺言と同内容の遺言原稿を作成し、昭和五六年七月初めころこれをハナにその病室において読み聞かせ、ハナからそのとおりの公正証書遺言の作成嘱託手続きをとるよう依頼された。右読み聞かせの際には、ハナの要望により原告と甲野雪子が立会つた。西村は同月四日公証人の訴外坂東治(以下「坂東」という。)に右遺言原稿、ハナの印鑑登録証明書、ハナの相続人の戸籍謄本等を渡して遺言公正証書の作成を嘱託し、右坂東とその作成日を同月九日とすることを打ち合せた。その後坂東は前記西村から受取つた遺言原稿どおり公正証書用紙に清書して筆記を準備した。

同月九日午後一時三〇分ころからハナの病室において、坂東、西村及び証人として弁護士訴外中川克巳、同山田長伸立会いのもとに、坂東が前記のとおり筆記を準備していたとおりの文言の本件公正証書が作成されたが、その際公証人の坂東を含む右立会者の誰も医師あるいは看護婦にハナの病状を問い合せたり、右作成について了解を得たりしなかつた。

二本件公正証書作成前後のハナの病状

〈証拠〉によれば以下の事実が認められ、これに反する証拠はない。

1  ハナは前記のとおり昭和五六年六月一二日住友病院に入院したが、右入院は、主治医の訴外吉川敏明において診察の結果、ハナの全身の衰弱著明と判断してその原因検査のため指示したものであつた。吉川医師は、その後のハナの症状や検査結果等から、同月一九日重症の肝障害(肝硬変状態)と肝癌の合併と診断した。ハナは、同月二四日には貧血が著明になり、これが輸血を施すも進行し、下血も続いたうえおう吐などの消化管症状が強まつた。肝硬変の場合出血が直接死因となる危険が非常に高いことから、吉川医師は同月二六日ころにはハナが重篤な状態にあると判断し、付き添つていた甲野雪子がハナの長男外の親族に連絡するよう指示した。ハナは同月三〇日ころまでは会話を交わしたり笑顔を見せたりすることがあつたが、翌七月四日ころから肝細胞機能障害による代謝異常から起こる肝不全症状が強まり、眠つたりうとうとしたりするいわわる傾眠状態が進行し、他からの問いかけには返事をしたりするが自ら積極的に話すいわゆる自発言が減り、看護婦の呼びかけにもただうなづくという動作をもつて応ずるという状態で、その反応の鈍化が進み、同月七日にはほぼ終日看護婦の呼びかけにもなんら反応を示さない状態に陥つた。吉川医師は、同月六日の診察等からハナが肝不全症状、貧血等が原因となつて意識障害を来し、危険な状態にあるものと判断した。翌七日、検査の結果ハナの血中アンモニア濃度は一五四μg/dl(正常値三〇ないし八六μg/dl)、尿素窒素五九mg/dl(正常値は八ないし二〇mg/dl)といずれも高値を示した。臨床的には血中アンモニアの高濃度は肝性脳症を来たして意識障害をもたらすことが多いことが指摘されており、その治療剤として右濃度を低下させるあるアルギメートが使用されているが、その治療効果は一時的なものである。吉川医師はハナに右アルギメートを投与し、翌八日にはハナの血中アンモニア濃度は一一九μg/dlと低下し、これに伴つてハナの意識状態はやや回復し、看護婦の問いかけに発語して答えることも見られるようになつた。ハナは、翌九日午前零時ころ看護婦から痛みはないかと問われて「ないです」と答え、看護婦から眠るよう促されるとうなずいて目を閉じる状態にあつたが、同一〇時ころの吉川医師の回診時には、血圧が最高一〇〇、最低六〇(ミリメートル水銀柱)と著しく低下し、意識状態も悪化していたので、同医師はハナが大量出血のため極めて重篤な状態にあると判断するとともに、看護婦に輸血を指示し、ハナに対し同一〇時四〇分からそれまで行つていた点滴を一時中止して輸血が開始され、さらに同日午後二時輸血が追加され、同三時にこれが終了した。その後ハナは、同五時四五分ころから間欠的に下血が続き、翌一〇日午前六時四〇分ころには看護婦の呼びかけにも反応を示さなくなり、同七時三〇分ころには瞳孔が縮小気味の状態となり、同一〇時四五分死亡した。

2  その後住友病院はハナの病理解剖を行い、ハナにつき肝硬変症と肝癌(右肺下葉に浸潤転移)が合併しており、死因は肝不全によるものとの所見を下した。

三本件公正証書作成時の状況

〈証拠〉によれば以下の事実を認めることができ、これを覆すに足る証拠はない。

本件公正証書は、同月九日午後一時三〇分ころからハナの病室において坂東、西村、証人の弁護士二名立会いのもとに作成が開始された。当時ハナはベッドに寝て右腕に点滴(輸血)中であつたが、その状態のまま、先ず西村が本件公正証書遺言と同一文言の遺言原稿に基づき、これに記載された条項を順次読み聞かせるとともに、「この土地は生駒のどの部分の土地で、これを誰にあげるということですよ」という仕方で趣旨を説明し、その都度それでよいかをハナに尋ねていき、ハナはこれに対しうなづいたり「はい」とか「そうです」と簡単な返事をするという状態であつた。右遺言原稿の全条項について西村によるハナの意思確認が終つた後、続いて坂東が前記認定のとおり準備していた清書ずみの本件公正証書記載文言をハナの意思を確認しながら読み聞かせていつたが、その途中ハナが眠りかけたりし出したため、坂東は読み聞かせを数分間中断したことがあつた。右読み聞かせに対してもハナは、前記西村に対するのと同様、その内容を承認するような簡単な動作と返事をしただけであつた。この間、ハナが自ら遺言内容を述べたり、西村及び坂東の準備した遺言内容につき質問しあるいはその訂正を求めたりするようなことはなかつた。坂東は右読み聞かせを終了後ハナに本件公正証書に署名を求めたが、ハナが点滴中のうえその表情や態度から署名するのは無理と判断してハナの署名を代書し、ハナにその実印を手渡して押印を求めた。ハナはこれを受取り、坂東が下敷で支える本件公正証書の右署名下に押印したが、その力が弱かつたため印影がずれるとともに不鮮明となつたので、坂東はハナに再度押印を求め、ハナの手を持つて介添えしハナに押印させた。そして坂東は、本件公正証書に「遺言者は点滴中のため署名できないので当公証人代書したところ押印した」と付記し、立会証人の署名押印を得て、同日午後三時前ころ本件公正証書の作成を終了した。

四本件公正証書作成時におけるハナの意思能力

以上認定の事実に基づいて本件公正証書作成時におけるハナの意思能力の存否について検討する。

1  ハナは、肝硬変症と肝癌の進行により昭和五六年六月一二日住友病院に入院当初からかなり衰弱し重篤な状態にあつたが、前記認定の西村の遺言原稿作成経過、その間のハナの言動、症状等にかんがみると、少なくとも西村が遺言原稿の作成を完了した同年七月初めころまでは事理弁識能力を備えた意識状態にあつたものと認められる。そうすると、西村の作成した遺言原稿の内容はハナの意思に基づくものと認めることができ、したがつてこれと同一の本件公正証書遺言の内容は、その作成前にハナが翻意したことを窺わせる証拠もないから、ハナの意思に沿うものであつたと認めて差し支えない。

2  しかし、ハナは同月四日ころから傾眠状態が進行し、自ら発語することも次第にできなくなり、同月七日には看護婦の呼びかけにも反応を示さない状態に陥り、血中アンモニア濃度低下治療剤の投与により一時その意識状態に改善は見られたものの、本件公正証書作成当日の午前一〇時ころには極度の貧血状態に陥り、主治医の吉川医師において危険な状態にあると診断して看護婦に輸血を指示するという状態にあつたこと、ハナは、本件公正証書作成手続中の坂東の読み聞かせの最中に眠りかけたりし、そのため坂東において読み聞かせを一時中断せざるをえない状態に陥り、また、押印も適切にできず、これをするのに坂東の介添えをうけなければならない状態であつたことは前記認定のとおりであるうえ、前記認定事実からすればハナの右各症状は肝硬変と肝癌の合併による肝不全病状や貧血等に起因し、それも重症のものであることが認められ、これらを合わせ考えれば、本件公正証書作成当時ハナの意識はかなり悪化した状態にあつたものといわざるをえない。

3  ところで、〈証拠〉によれば、肝硬変や肝癌による肝不全状態によつて生ずる意識障害(昏睡)の程度、段階については、本件ハナの症状との関係で五分類すると、覚醒リズムの逆転やときに抑うつ状態に陥るなど性格変化のみられる状態(昏睡度一)、時、場所などを間違えたりこれが分からなくなつたりの指南力障害が見られるが、普通の呼びかけで開眼し会話ができる状態(昏睡度二)、殆ど眠つており、しかし外的刺激で開眼しうる状態(昏睡度三)、完全に意識が消失するが、痛み、刺激には反応する状態(昏睡、昏睡度四)、痛み、刺激にも全く反応しなくなる状態(深昏睡、昏睡度五)に分けることができること、そして、肝不全による代謝異常から起きる意識障害はその程度が多分に変化しやすい面があり、また、周囲の者から名前を呼ばれれば簡単な返事をしてこれに答え、一見正常に見える場合もあるが、意識は障害されていることが認められる。

4  そして、吉川医師は、前記認定の病理解剖の結果や自ら診察した結果、その他諸検査結果、看護記録の記載等から、本件公正証書の作成時がハナ死亡の約二〇時間前であるうえその死因が肝不全であること、このように肝不全による死期を目前にした段階においては、一般的にも意識障害の程度が相当進み、正常な理解、判断力を失つていると思われ、特にハナの場合は、貧血が著しく、人からの問いかけに対して「はいはい」とうなずいたりして応答することはできたにしても、脳虚血のためいわゆるぼうつとした状態にあつたといえるし、公証人の読み聞かせ中眼りかけたのは一時的に意識不明の状態に陥つたもので、これらを考えると本件公正証書作成当時ハナが本件遺言内容を理解しうる意識状態にあつたとは考え難く、また、仮に当時ハナにこれを理解できる程の意識が存した時があつたとしても、これが本件公正証書作成に要した一時間ないし一時間三〇分もの間持続できたとは思われない旨証言し、証人宗光は、脳神経外科専門医の立場から、前掲証拠資料に基づき、吉川医師とほぼ同旨の理由により、本件公正証書作成時ハナにはこれを理解しうる正常な判断力はなかつたと断定する。

5  証人西村は、ハナは同証人らが本件公正証書作成のためハナの病室に入室した際同証人らと挨拶を交わし、本件公正証書の作成が終つた後には公証人に椅子を観めたり、原告か甲野雪子に「ジュースを飲ませてやつてくれ」と言つたりして気を遣つていた旨証言し、また、証人坂東は、「入室したとたんハナの病状は大分重いなと思つた。」、「ハナには自分から本件公正証書遺言の趣旨も述べる元気はなかつたと思う。」旨証言する一方で、「ハナの応答はしつかりしていた」、「本件公正証書作成中ハナは何という名前だつたか娘の名前をあげてその娘をようしてやつておいて」と言つていた旨の証言もする。 しかしながら、右西村が証言する、ハナが椅子を勧めたりジュースを飲ませるよう気を遣つたりした事実については、証人坂東は、「記憶がない」旨証言するところ、このような事実はハナの意識状態を判断するうえで重要な事実であり、公証人の坂東としてはかような事実を経験していたとすれば記憶に残つていてしかるべきと考えられるし、同人らがハナの病室でジュースを飲んだことを認むべき証拠もないことを合わせ考えると、前記西村の証言には疑問が残る。仮に右両証人が前記証言するような言動がハナにあつたとしても、前記吉川医師の証言に照して考えると、それによつて当時悪化の方向に向かつていたハナの意識状態が基本的に変化改善されたものとも考え難い。

また、前記吉川証言により住友病院の看護婦が記載したものと認められる前掲乙第一二号証(看護記録)には、本件公正証書作成当日の午前八時の欄に「意識はつきりしている」、同一〇時の欄に「問いに対しやや言語不明瞭なりも返事あり」、同日午後三時の欄に「意識明瞭なり」との各記載がある。しかし、右午前中の記載内容の状態は前記(二、1(一))認定の、吉川医師が回診し、ハナが大量出血のため危険な状態にあると判断して看護婦に輸血を指示する以前のことであるし、午後の分も含め右各記載がハナのどのような言動ないし状態を根拠に判断してのものであるかは不明である。しかも、前述のとおり、本件公正証書作成当日のハナの病状に照せば、ハナが問いかけに応答したとしても、それは簡単な動作や言葉による程度のことと考えられ、これがあつたとしてもハナの意識状態がその前後の低下状態から脱したと認めるには足りないというべきである。

6 以上考察したところからすれば、ハナは特に本件公正証書作成の二日前である七月七日以降前記分類の昏睡三位と四の間を行き来する状態で推移し、本件公正証書作成の翌日の同月一〇日には昏睡度五の状態に陥り、死亡するに至つたものであり、本件公正証書作成当時坂東や西村の問いかけにうなずきあるいは簡単な返事で応答したにしても、その意識状態はかなり低下し、思考力や判断力を著しく障害された状態にあつたものと認められる。

そして、このような意識状態に、本件遺言の内容がかなり詳細で多岐にわたる(特に、株式について遺言内容の配分を算出する計算関係は複雑である)ことを合わせ考えれば、本件公正証書遺言の内容はハナが予め確定していたものである点を考慮しても、本件公正証書作成当時においては、ハナがその意味・内容を理解・判断するに足るだけの意識状態を有していたとは到底考え難い(仮にハナが西村の読み聞かせ開始時に右理解・判断力を備える意識状態にあつたとしても、このような意識状態が本件公正証書作成手続中その終了時まで持続して存在したということはなおさら考え難い)。

以上のところからすれば、本件公正証書作成当時ハナには有効に遺言をなしうるために必要な行為の結果を弁識・判断するに足るだけの精神能力が欠如していたものというほかなく、したがつて本件公正証書遺言は無効というべきである。

第三結論

よつて、原告の本訴請求は、その余について判断するまでもなく、理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官竹中省吾)

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